生島孝子さん
 
  • 生年月日:1941年6月14日
  • 失踪時期:1972年11月1日
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■基本情報


06/04/16 生島馨子さんの訴え
4月16日、埼玉県大宮市のJACK大宮にて日本再生フォーラム第17回講演会が開催されました。
その講演会の中でのご家族の声をご紹介します。

生島孝子さんのお姉さん、生島馨子さん。




音声は、「話しの花束」さんより

| 1000番台::生島孝子 | 03:42 PM | comments (0) | trackback (0) |
うらさんの祈りはダイヤモンドになって(2)
1971年に失踪した生島孝子さんのお姉さん、生島馨子さんがお書きになった『うらさんの祈りはダイヤモンドになって』という本のタイトル。この「ダイヤモンドになって」という部分をご紹介します。ワイドショーでも紹介されたことがあるのでご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。御遺灰、御遺骨をダイヤモンドにしてくれるというサービスがあります。生島馨子さんは、うらさんがお亡くなりになった数日後、これを見てすぐに行動されます。そこには、色々な思いがありました。「母の命を守りきれなかった申し訳なさ」「母の無念を引き継ぐ覚悟」「孝子さんにうらさんの思いを伝えたい」。数ヶ月後、うらさんの御遺骨から小さなダイヤモンドが出来上がって来ます。



 話を聞いて、即座に依頼した。母親のお骨を勝手に持ち出して、ダイヤモンドなどという“物体”に替えるのだから、眉をひそめる人もいるだろう。もしかしたら、罰当たりな考えなのかもしれない。けれども私は、ためらわなかった。
 特定失踪者の母という立場にあって、娘を思う気持ちの強さだけで生き延びようと、消えかかる命の火を必死に燃やし続けたうらさんである。たとえ身体はこの世から消えても、その思いまで葬り去るわけにはいかない。だからこそ、私が母の無念を引き継がなくてはならないのだ。遺灰ダイヤモンドは、うらさんと私の決意表明なのである。
 うらさんにはダイヤモンドとなって、いつもそばで輝いていてほしい。忘れっぼく投げやりになりがちな私を叱咤激励し、孝子の帰還が一日も早く実現するよう、祈っていてほしい……。(p199〜p200)


 そして、六月末のある日、出来上がったダイヤモンドが送られてきた。ベージュのベルベットのケースに収められたそれは、お日様のように温かみのある黄色をしていた。午後の陽射しを受けてキラキラと眩しく輝いている。
「何てきれい……」
 ほうっとため息が出た。ケースをそっと傾けながら、ダイヤモンドの表面に光の粒が躍るさまを眺める。小さくて控えめな宝石だけれど、想像していたよりも、ずっとずっと強い輝きだ。私にはそれが、まるでうらさんという女性そのもののように見えた。うらさんの魂が、ダイヤモンドになった……。
 うらさんの涙を、私はあまり見たことがない。辛く悲しい時も、泣いたりわめいたりしない人だった。もしも生きているうちに孝子と再会できたなら、きっと身も世もなく号泣しただろうと思うけれど…‥・。そんなうらさんが、孝子の目撃情報を得た時には、大粒の涙をこぼしていた。このダイヤモンドは、うらさんの涙の結晶なのかもしれない。願わくば孝子の今いる場所まで、この輝きが届いてほしい。
 もうしばらくしたら、ダイヤをペンダントに加工してもらうつもりだ。いつか、孝子が帰ってきたら、それを見せて、
「母さんだよ。孝ちゃんの帰りをずっとずっと待ってたんだよ」
と言おう。お日様色のペンダントは、お酒落な孝子にきっと似合うに違いない。(p203〜p204)






うらさんの祈りはダイヤモンドになって—健気に生きた明治の母
著者:生島 馨子
発行:文芸社(03-5369-2299)
定価:1,470円
ISBN::4286002578
Amazonで購入

| 1000番台::生島孝子 | 03:19 AM | comments (0) | trackback (0) |
うらさんの祈りはダイヤモンドになって(1)
972年11月1日失踪した生島孝子さん(当時31歳)のお姉さん、生島馨子さんが、母うらさんの一周忌を前に著書「うらさんの祈りはダイヤモンドになって」を刊行されました。生島うらさんは、昨年2月、奇しくも曽我ひとみさんのお父様と同じ日に99歳でお亡くなりになりました。「孝子を早く北朝鮮から取り返し、一目会って死にたい」そんな願いを果たせなかった悔しい思いがこの本にあります。生島馨子さんは、この本の出版にあたり「一部解決(現在の認定者)で特定失踪者については先送りとし又5年、10年もかかる。水面下では既に具体的な交渉が進んでいるとも伝わってきます。そうなった時は大変と今から世間に訴える覚悟と準備を始め、そのためには、うらさんをこの本で皆さんに思い出していただくことで、孝子の奪還運動を盛り上げられると信じています。」と述べられています。この本は、母・うらさんの思い出を語りながら、孝子さんを奪還するための姉・生島馨子さんの覚悟の書でもあります。
どうか皆様もぜひお手にとってお読みいただければ幸いです。


Amazonで発売中ですが、電子出版サイト『Boon-gate.com』で、電子出版(デジタル・データ)としても発売されています。こちらもご利用下さい。



うらさんの祈りはダイヤモンドになって—健気に生きた明治の母
著者:生島 馨子
発行:文芸社(03-5369-2299)
定価:1,470円
ISBN::4286002578
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今まで本当にありがとう。
そして、生きているうちに
孝ちゃんに会わせてあげたかった・・・

平成十七年二月七日。
春まだ浅いこの日、一人の老女が天に召された。
名は生島うら、享年九十九歳。
百歳の誕生日まで、
あとわずか一ヶ月余りを残しての旅立ちであった。
様々な病や身体の不調を抱えながらも、
明治から平成まで四つの御世を、
健気に精一杯生き抜いてきた。


[調査会NEWS 327](18.1.19)

■生島孝子さんのお姉さんの著書刊行へ

              荒木和博

 昭和47年11月1日に東京渋谷区の自宅を出て失踪した生島孝子さんのお姉さんである生島馨子(けいこ)さんの著書『うらさんの祈りはダイヤモンドになって』(文芸社・税込1,470円)が2月に刊行されます。

 本書のテーマは昨年2月に99歳で亡くなられた母親のうらさんのことです。孝子さんの失踪でご苦労されたこと、それでも娘さんに会いたいという一念で懸命に生き続けられたことが切々と書かれています。深刻な話の割に読んでいて落込まないのはうらさんの前向きの生き方と、馨子さんの文章によるものだと思いますが、自分たち自身、活動の上でも(特にご家族と接するときの気持ちなど)色々と考えさせられることがありました。

 本の中に、調査会を分離する前、平成14年の末に救う会全国協議会として最初の特定失踪者リスト(当時はまだ「特定失踪者」という言葉自体がありませんでしたが)を発表する予定でご家族に了解をとったのに、直前になってその発表を延期したことに落胆されたくだりがありました。延期して調査会を分離し、1月10日の設立にあわせて発表したのは当時救う会の事務局長だった私の責任でやったのですが、延期を決めたときに、生島さんとは別の失踪者のご家族から、涙声で「何で延期したのですか」というお電話をいただいたことがありました。本を読んでいて、「あのとき同じ思いをしておられた人がいたのだな」と思い、自分の言動や行動の一つひとつをもっと大切にしなければならないと感じた次第です。

 本書は2月刊行なので書店に出るのはもう少し先ですが、ぜひご一読をお勧めします。


生島 孝子 (当時31歳)
生年月日  :昭和16年(1941)6月14日
失踪年月日 :昭和47年(1972)11月1日
当時の身分 :区役所支所勤務
当時の居住地:東京都渋谷区
失踪場所  :自宅アパートを出たあと不明




生島孝子さんは渋谷区笹塚のアパートに妹と二人で住んでいた。勤務先の港区役所麻布支署(電話交換手)に「家事整理」という理由で欠勤届を出していた。朝方、妹が出かける時、「夕方に電話があったら出かける」と話していたという。午後3時、近所のクリーニング屋さんに洋服を出していたことは確認されている。午後7時、妹が帰宅するとすでに孝子さんの姿はどこにもなかった。室内は荒らされた様子はなく、財布や定期もアクセサリー類も残っていた。電話があって誰かと会ったのだろうか。一緒に住んでいた妹には、それが誰なのか全く見当がつかない。
孝子さんが失踪した翌日、アパートに不審な電話がかかってきた。姉が受話器を取ると相手は無言のまま。妹ではないかと思って、大きな声で「たーちゃん、違う?」と何度も言ったが全然返事をしない。かといって電話が切れるわけでもない。その後、突然、「そんなことしたって今さら仕方ないだろう」という男の怒鳴り声が聞こえ、電話は切れた。
この不審な電話は特定失踪者の多くの場合に共通する。
当時、母、生島うらさんは白内障の手術で入院していた。あと数日で退院するという時だった。母思いの生島孝子さんがこのような時期に自ら失踪することは考えられない。孝子さんが病室にうらさんを見舞った時、手術後ということで目を包帯でまかれたいたため顔を見ることは出来なかった。声だけを聞いた。その声が最期の声となってしまった。

翌日、警察に届けたが、「年齢は31?じゃぁ、駆け落ちかなんかじゃないの」という具合でまともには取り合ってくれなかった。届けだけは受け付けてくれた。しかし、2年目、警視庁の家出人特別強化捜査の対象に選ばれ(失踪の状況が不審だったからに他ならない)、あらためて詳しい捜査が行われた。捜査は警視庁捜査一課が行った。何らかの事件性が疑われていたのかもしれない。しかし、そこでも手掛かりは何も見つからなかった。

| 1000番台::生島孝子 | 03:12 AM | comments (0) | trackback (0) |
34年目の11月1日 生島孝子さん
生島 孝子 (当時31歳)
生年月日  :昭和16年(1941)6月14日
失踪年月日 :昭和47年(1972)11月1日
当時の身分 :区役所支所勤務
当時の居住地:東京都渋谷区
失踪場所  :自宅アパートを出たあと不明



生島孝子さんは渋谷区笹塚のアパートに妹と二人で住んでいた。勤務先の港区役所麻布支署(電話交換手)に「家事整理」という理由で欠勤届を出していた。朝方、妹が出かける時、「夕方に電話があったら出かける」と話していたという。午後3時、近所のクリーニング屋さんに洋服を出していたことは確認されている。午後7時、妹が帰宅するとすでに孝子さんの姿はどこにもなかった。室内は荒らされた様子はなく、財布や定期もアクセサリー類も残っていた。電話があって誰かと会ったのだろうか。一緒に住んでいた妹には、それが誰なのか全く見当がつかない。
孝子さんが失踪した翌日、アパートに不審な電話がかかってきた。姉が受話器を取ると相手は無言のまま。妹ではないかと思って、大きな声で「たーちゃん、違う?」と何度も言ったが全然返事をしない。かといって電話が切れるわけでもない。その後、突然、「そんなことしたって今さら仕方ないだろう」という男の怒鳴り声が聞こえ、電話は切れた。
この不審な電話は特定失踪者の多くの場合に共通する。
当時、母、生島うらさんは白内障の手術で入院していた。あと数日で退院するという時だった。母思いの生島孝子さんがこのような時期に自ら失踪することは考えられない。孝子さんが病室にうらさんを見舞った時、手術後ということで目を包帯でまかれたいたため顔を見ることは出来なかった。声だけを聞いた。その声が最期の声となってしまった。

翌日、警察に届けたが、「年齢は31?じゃぁ、駆け落ちかなんかじゃないの」という具合でまともには取り合ってくれなかった。届けだけは受け付けてくれた。しかし、2年目、警視庁の家出人特別強化捜査の対象に選ばれ(失踪の状況が不審だったからに他ならない)、あらためて詳しい捜査が行われた。捜査は警視庁捜査一課が行った。何らかの事件性が疑われていたのかもしれない。しかし、そこでも手掛かりは何も見つからなかった。



母、うらさんは孝子さんの生存を信じていた。温泉地など賑やかな場所に行っては孝子さんを探していた。占いで、北にいると言われれば北海道、東北地方にまで出かけていった。後、大韓航空機爆破事件で金賢姫の教育係として日本人女性が北朝鮮にいることが判明した時、「これ、孝子じゃないか」とうらさんは言った。田口八重子さんとわかってからも、もしかしてもっと拉致された日本人がいるんじゃないか、とうらさんは思っていたという。

2002年 9月17日、リストになかった曽我ひとみさんの名前が出てきたことで、10月上旬には警察に相談にいく。また救う会にも届け出る。2004年には、脱北した呉吉男氏から、生島孝子さんの目撃証言が出る。1985年から1年間、平壌の高級アパートで暮らして彼はそこで会話をした日本人女性が「生島孝子さんに似ていた」と証言したのである。1月には調査会の荒木代表が、そして6月には姉、生島馨子さんが訪韓して証言を聞いた。

2004年6月 韓国ソウル。韓国人経済学者呉吉男(オ・ギルナム)博士。1985年から1年間、平壌の高級アパートで暮らしていました。彼はそこで会話をした日本人女性が「生島孝子さんに似ていた」と姉の馨子さんに伝えました。





(VTRで呉吉男氏の話)
 「この写真とこの写真、この写真は皆繋がります。こういう姿の人を私は一度見たことがあるんです。繋がります。ほぼ80〜90%間違いないです。背も容姿も年齢も・・・。」

(ナレーター)
 その翌日。(2004年6月 東京新宿)

(姉・生島馨子さん)
 「ただいま」

(母・生島うらさん)
 「おかえりなさい」

(ナレーター)
 うらさんは、帰国した馨子さんから報告を聞きました。

(姉・生島馨子さん)
 「少し良い話があった」

(母・生島うらさん)
 「良く頑張ったねぇ。きっと苦労したんだろうねぇ・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「見つかって、こっちに帰って来れるといいね」

(母・生島うらさん)
 「ああ、帰れるようになればね・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「105歳まで生きなきゃなんないのかな?」

(母・生島うらさん)
 「えっ、あと5年・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「あと5年、頑張れる?」

(母・生島うらさん)
 「5年なんて頑張れない、あと1年くらい・・・」(涙がこぼれる)

2005 年2月7日、うらさんは再会が叶わぬままお亡くなりになった。あと1ヶ月で100歳であった。うらさんの葬儀で、出棺の直前、家族はうらさんの髪の毛を切って取っておいたという。将来、孝子さんらしき人が見つかった時に、DNA鑑定ができるように、ということのために。



「私が生きていると知ったらあの子はどう思うかしら。
あの子に知らせられたら・・・。それだけが望みなんです。」
そうも語っていたうらさん。特定失踪者問題調査会によって北朝鮮向けの短波ラジオの放送も始まった。しかし、孝子さんに「うらさんは生きてあなたの帰りを待っていますよ」とは伝えてあげられない。


生きて娘に会いたい、このささやかな希望を叶えてやれなかった私たち。


| 1000番台::生島孝子 | 08:33 AM | comments (0) | trackback (0) |
3/13TBS「報道特集」特定失踪者の家族『時間がない』続々
 秋田の中学生と小学生の兄妹が、特定失踪者「生島孝子さん」のご家族宛てに、たくさんの「思いのこもった折り鶴」を作って送ってくださったそうです。孝子さんのお姉さんは、遠くからの、子どもたちの純粋な思いにとても感激したということです。

*もう一度原点に:ブルーリボン、増元さんのメール、伊藤兄妹 電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3748


*3/13にTBSで放送された「報道特集」を、引き続きビデオに撮ったものから文字化しました。

《特定失踪者の家族 『時間がない』》

(司会者)
 さて、続いては「拉致問題」です。去年の暮れに、横田めぐみさんの遺骨とされるものが「別人のものである」と日本政府が発表して以来、北朝鮮はこの問題では強硬な姿勢を取り続けていまして、未だに進展はありません。横田さんご夫妻のお歳を考えれば、どれ程怒りと無念で燃えていらっしゃるか、容易に察することができるのですが、拉致の可能性が否定できないという特定失踪者の家族の皆さんも、年々高齢化が進んでおりまして、政府による拉致認定もないまま亡くなっていく方もいらっしゃいます。このままでは例え拉致の事実があったとしても、北朝鮮の引き延ばしによって時間切れになってしまう、そんなギリギリの状況で暮らすご家族の皆さんを取材しました。


(ナレーター)
 2/9新潟佐渡市。骨壷を抱いてバスを降りるジェンキンスさん(64)。後ろには喪服姿の曽我ひとみさん(45)。先月(2月)7日に亡くなった曽我ひとみさんの父親茂さんの葬儀の映像です。フラッシュを浴びながら式場に入って行くひとみさん。依然として母親のミヨシさんの安否はわからないまま悲しみの日を迎えました。

*曽我ひとみさんの父、茂さん 死去  電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3624

 拉致被害者地村さん夫妻、蓮池さん夫妻、半年前まで内閣官房参与として家族の支援にあたってきた中山恭子氏も駆けつけました。また、森進一・昌子夫妻の花も届き、その模様は大きく報じられました。

 しかし、曽我茂さんと同じ日に亡くなったこの人のことはあまり知られていません。

 2/11 東京世田谷。生島うらさん。享年99。拉致の可能性が否定できない特定失踪者「生島孝子さん」の母親です。うらさんの娘「生島孝子さん」は、1972年東京渋谷区で姿を消しました。家出をするような理由は何もありませんでした。特定失踪者問題調査会では「生島孝子さん」を拉致の可能性が濃厚な33人の1人にあげています。

 生前、うらさんはこう話していました。(2004年6月)「あの子は心の優しい子でしたけど、だけどすごく優しい半面、しっかりした、ものすごくしっかりした、気の強いところが、芯の強い性格の子だったもんですから、どこかで自立して生きているんじゃないかと、それをそういうふうに信じるようになっちゃって・・・」

(ナレーター)
 うらさんは、2人の姉妹と一緒に孝子さんの生存を信じ続けてきました。(姉の馨子さん65・妹の敦子さん60)

 その思いが通じたのか、孝子さんによく似た女性を目撃したという人物が現れました。2004年6月 韓国ソウル。韓国人経済学者呉吉男(オ・ギルナム)博士。1985年から1年間、平壌の高級アパートで暮らしていました。彼はそこで会話をした日本人女性が「生島孝子さんに似ていた」と姉の馨子さんに伝えました。

(VTRで呉吉男氏の話)
 「この写真とこの写真、この写真は皆繋がります。こういう姿の人を私は一度見たことがあるんです。繋がります。ほぼ80〜90%間違いないです。背も容姿も年齢も・・・。」

(ナレーター)
 その翌日。(2004年6月 東京新宿)

(姉・生島馨子さん)
 「ただいま」

(母・生島うらさん)
 「おかえりなさい」

(ナレーター)
 うらさんは、帰国した馨子さんから報告を聞きました。

(姉・生島馨子さん)
 「少し良い話があった」

(母・生島うらさん)
 「良く頑張ったねぇ。きっと苦労したんだろうねぇ・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「見つかって、こっちに帰って来れるといいね」

(母・生島うらさん)
 「ああ、帰れるようになればね・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「105歳まで生きなきゃなんないのかな?」

(母・生島うらさん)
 「えっ、あと5年・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「あと5年、頑張れる?」

(母・生島うらさん)
 「5年なんて頑張れない、あと1年くらい・・・」(涙がこぼれる)

(ナレーター)
 しかし・・・娘との再会を果たせぬまま亡くなった生島うらさん。生きていれば昨日(3/12)100歳を迎えるはずでした。喪主を務めた孝子さんの姉・馨子さん。妹の敦子さんと共に悲しみに耐えていました。(2/11葬儀にて)

 身内がほとんどの葬儀。政府関係者の参列はありません。記者の姿も見えず、曽我茂さんの場合とは対照的です。

 そんな中、同じ立場の家族が参列していました。1974年に新潟佐渡で姿を消した特定失踪者「大澤孝司さん」の兄茂樹さん(63)です。

(大澤茂樹さん)
 「私のことのように思っております。というのは、私の親父も今年で96歳になって、もう先がありませんので、一刻も早く救出を願ってですね、日本政府の方に、1日も早く救出をやってもらいたいと思って、今日駆けつけました。」

(ナレーター)
 生前はお花の先生をしていたといううらさん。鮮やかな花に囲まれて送られます。

(姉・生島馨子さん)
 「起きなさいー!!」(泣きながらお母さんに声をかけていらっしゃいました・・・)

(ナレーター)
 参列者を前に、喪主の馨子さんがあいさつをしました。

(姉・生島馨子さん)
 「最近のうらは、娘孝子が帰って来ることを望んで、ニュースにしても話にしても、特定失踪者の話になると頭がとても冴えておりました。皆さまからすると、 99歳の天寿を全うしたからよかったろう、ということでしょうが、本人は娘孝子に会えないで逝くのが非常に残念だと思います。」

(ナレーター)
 娘が北朝鮮に拉致されたと信じ、会えないまま亡くなった生島うらさん。拉致被害者や特定失踪者の家族の高齢化が進んでいます。

*特定失踪者・生島孝子さんのお母さん、死去  電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3628

(中略)

(荒木和博さん)
 「えー、今度のポスター、これで5代目のポスターになるんですが、『拉致被害者・特定失踪者ポスター』というふうにいたしまして・・・」

(ナレーター)
 特定失踪者問題調査会が新たに作ったポスター。政府が認定している拉致被害者も初めて加えました。その理由は・・・。

(荒木和博さん)
 「政府が認定しようが認定しまいが、拉致被害者は拉致被害者ですから。この中に入っている写真以外の方だって当然いるわけで、それを助けるというのは、その拉致をされている人を助けるということで、政府に認定されたから助けるのではない、ということをですね、やはり1人でも多くの方に理解していただきたいと。」

(ナレーター)
 こう話す荒木代表。これまでに集めた情報から「まだ明らかになっていない拉致被害者が大勢いる」という確信を抱いています。

(荒木和博さん)
 「どう少なくみても『100人以上はやられているだろう』と。おそらくは、それよりはるかに多くの数の人が向こう(北朝鮮)へ、自分の意思に反して連れて行かれたか、あるいは騙されて向こう(北朝鮮)に入って出られなくなったと。ともかく今やはり国民の前に、拉致被害者というのがこんな数ではないんだ、ということをわかってもらうためには、やはり政府が責任を持って、その認定をしていくということが絶対に必要だと思います。」

(ナレーター)
 特定失踪者問題調査会では、拉致問題を調べるために「政府が専門の機関を設けるべきだ」と主張しています。何故なら、遥か昔の失踪に関する情報が、今になって寄せられることもあるからです。例えばこんなふうに・・・。

(姉・生島馨子さん)
 「テレビを見た方が、調査会にお電話をくださったようですね。」

(ナレーター)
 1972年、東京渋谷で失踪した「生島孝子さん」。私たちはその姉・馨子さんを今月(3月)7日に訪ねました。99歳の母・うらさんが亡くなってちょうど1ヶ月のこの日、馨子さんは妹に関する新たな情報があったことを明らかにしました。

(姉・生島馨子さん)
 「テレビを見た方が、調査会にお電話をくださったようですね。その当時、何か『怪しい車を見かけた』という方がいらしたようですね。普段そこにいる車ではなかったようなお話でしたけど。」

(取材者)
 「それは孝子さんの職場の周りで、ということですか?」

(姉・生島馨子さん)
 「いえ、あの(住んでいた)アパートの近くのようですね。」

(ナレーター)
 新たな情報が寄せられたのは、うらさんが亡くなる2日前のこと。うらさんは「その情報提供者に会いたい」と話していました。馨子さんはうらさんのこんな姿がまぶたに焼き付いているといいます。

(姉・生島馨子さん)
 「特定失踪者問題調査会の大きい(ポスター)写真ね、あれを自分の『車イスで見える低い所に貼ってくれ』って言うわけですよね。毎日そこを通りますからね。時々こうやって自分で車イスでずずっと寄ってって、こうして色んな人の(写真)見てるんですよね。『こんなにいるんだねぇ・・・』何て言いながら。だから単純に自分の娘がいなくなった、拉致されたっていうだけじゃなくて、やっぱり『こんなに大勢いるんだ』って心配していたから、問題の大きさも少しは感じてたんじゃないかなと思いますよね。」

(ナレーター)
 拉致と向き合い続けた99歳の母。家族の願いがかなう日はいつ来るのでしょうか?


(司会者)
 突然いなくなってしまった子どもに「何とか生きて会いたい」、そんな気持ちを支えに30年余りも待ち続けてきたお父さんやお母さんたち。

 生島うらさんは残念ながら100歳を目前に亡くなってしまわれましたが、うらさんの出棺の直前、家族はうらさんの髪の毛を切って取っておいたそうです。将来、孝子さんらしき人が見つかった時に、DNA鑑定ができるように、ということなんだそうですが、家族の皆さんはこうして亡くなっていく親たちのものを大切に保存しながら、いつかその無念の思いを晴らそうとしています。特定失踪者の家族にとっては「政府に拉致認定してもらえない」という事実も、その無念の気持ちを強くさせています。

 今回「古川了子さん」の家族は、やむにやまれず国を相手に訴訟に踏み切ったわけですが、今後はこうした提訴のケースもさらに出てくるのかもしれません。

*特定失踪者問題調査会
http://www.chosa-kai.jp/
*拉致の疑いが濃厚とされる特定失踪者のリスト  
http://nyt.trycomp.com:8080/tokutei2.php

*3/13TBS「報道特集」特定失踪者の家族『時間がない』
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3755
*3/13TBS「報道特集」特定失踪者の家族『時間がない』 続き
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3759

http://aoinomama.trycomp.net/

| 1000番台::生島孝子 | 06:30 PM | comments (0) | trackback (0) |

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